
今にも閉じてしまいそうな目を必死こすりながら僕はその通路を歩いていた。
初めての一人旅で神経をすり減らしていたのかもしれない。僕の身体は重かった。
この飛行機に乗ってしまえば、あとは勝手に日本まで僕を運んでくれる。行く時のわくわく感はすっかりなくなり4日間で蓄積された疲労が大きくのしかかっている。
どこまで行っても僕は人見知りで、自分から話しかけることがとにかく苦手だ。この一人旅でも、幾度となく人と話す機会があったのに僕は避け続けた。
疲労とともに自分自身に対する失望感も抱えて帰途についていた。
僕が乗る飛行機は中国の航空会社が出している。機内では中国語が所狭しと飛び交っている。この飛行機の空気感が息苦しかった。
やっとの思いで席に辿り着く。隣には中年の夫婦が座っていた。恐らく中国人だろう。僕は無言でバッグの中からイヤホンを取り出し、離陸するまでの間音楽を聴きながら前の席をじっと見つめた。
しばらくして、「Are you Japanese?」という声がイヤホンの隙間から僕の耳に届いた。とっさにイヤホンを外し横を見る。おじさんが僕の顔をじっと見ていた。見た感じ50代後半。仕事がひと段落したのだろう。チノパンに白シャツ、黒のジャケットと服装はとてもシンプルだ。ごつごつとした顔にはこれまでの仕事で奮闘したであろう記録が刻まれているが、決して威圧感はない。むしろその眼には親近感さえ湧いてくる。
「Yes」と僕は答えた。
「私はこれから日本を旅行するんだ。少し話さないかね」
おじさんは片言の英語で話しかけてきた。僕も片言の英語で答えた。「君は何歳?」「どこへ旅行していたんだい?」「旅行はどうだった?」と矢継ぎ早に質問が飛んでくる。僕は何度か聞き返しながら質問に答え、彼も僕の答えを何度か聞き返しながら終始微笑んでいた。
「おじさんは何しに日本に行くの?」と僕もおじさんに質問を始めた。「家内と観光にね。初めての海外旅行なんだ」と目を輝かせた。
初めて遇った外国のおじさんと僕はまるで親しい友人と話すように会話をしていた。
時折、おじさんの横に座っている奥さんが不機嫌そうな顔で僕らを睨んだ。おじさんは僕を見ていたずらに微笑んだ。僕も思わず笑ってしまった。
おじさんはおもむろに、パソコンで印刷したであろうチケットのバーコードが印刷されたA4の紙をファイルから取り出した。皺1本ない綺麗な紙だ。僕にペンを差し出し、「君の名前を書いてくれないか」と言った。小学校の時に習字を習っておいて良かったとふと思いながら、僕はその紙に自分の名前を書いた。おじさんはゆっくりと何度か頷くと、次は「君の出身地を書いてくれないか」と言い、僕はまたそれに応じた。同じように僕らが到着する都市名、僕が通う大学名を書いた。
そこでおじさんの要望は終わり、笑顔で「ありがとう。この紙は大事にとっておくよ」と僕に言った。僕も笑顔で頷いた。
その紙をファイルにしまうと、「では、おやすみ」と言って彼は目を瞑った。僕も同じように目を瞑った。すっかり忘れていた眠気が一気に押し寄せてきた。眠りに落ちる寸前に僕を包み込んでいたのは、晴れた日の飽きの夕暮れの湖畔で得られるような心の平穏であった。
目が覚めたのは飛行機が滑走路に降り立つ衝撃が身体全体に伝わってきた時だった。どうやら僕はぐっすりと眠っていたらしい。普段のフライトでは途中何度も目が覚めるのが常であるため、それは珍しいことであった。
「サヨナラ」とおじさんは僕に言った。「謝謝」と僕は言った。なぜ中国語で返事したのかはわからない。僕は手を差し出した。おじさんは僕の手を力強く握り返した。
飛行機から出て僕は大きく伸びをした。
雲の合間から伸びる穏やかな春の陽射しを僕は身体いっぱいに受け止めた。